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ソンヨク 列伝 孫堅の三男。母は正妻の呉氏。孫策、孫権の実弟。孫匡の実兄。孫朗、孫尚香の異母兄。妻は徐氏。 【演義】 丹陽の太守となるが、気性が激しく、酒に酔うと兵を鞭打った。妻の徐氏が占卜を立て、大凶と出たにもかかわらずに県の役人を集めて宴を開き、嬀覧(きらん)、戴員、辺洪らに暗殺された。後に徐氏は仇討ちを志し、孫翊の腹心だった孫高、傅嬰(ふえい)と共に嬀覧らを討った。 【正史】 勇猛果敢で、兄の孫策に似ていた。孫策臨終の際、張昭らは孫翊に兵権を委ねるよう孫策に勧めている。感情のままに動くところを、朱治にいさめられていた。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 67 78 27 16 45 233 145 172 順位 278 97 615 637 532 539 157 365 偏差値 54.3 59.3 34.5 31.7 42.4 41.8 57.3 50.1 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 A C C A C A 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 74 63 55 54 52 47 81 60 55 40 70 57 順位 67 163 214 341 193 346 71 148 181 317 34 98 偏差値 61.9 56.9 55.0 50.6 55.6 50.7 61.8 57.2 56.4 51.3 64.3 58.8 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 水将 自分より武力の低い敵部隊への水上戦法成功時クリティカル マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 125 揚州 任意 中華統一 重視 3/5 3/5 2/3 184 198 204(21歳) 不自然死 猪突 猪突 豪放 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 故事 ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 孫翊 親愛 徐氏、孫策 徐氏 嫌悪 なし なし 血縁 世代 ● ● 1 孫堅 孫静 孫羌 2 孫策 ①孫権 孫翊 孫匡 孫朗 孫尚香 孫暠 孫瑜 孫皎 孫賁 3 孫氏 孫魯班 孫登 孫和 ③孫休 ②孫亮 孫泰 孫綽 孫恭 孫鄰 4 ④孫皓 孫秀 孫綝 孫峻 孫震 孫歆 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 1歳 未登場 呉 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 7歳 未登場 呉 - - - 0 - - S3 194年 6月 群雄割拠 11歳 未登場 呉 - - - 0 - - S4 200年 1月 官渡の戦い 17歳 一般 建業 孫策 120 建議校尉 5000 徐氏 - S5 207年 9月 三顧の礼 - 死亡 - - - - - - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 柴桑 孫堅 120 - 0 徐氏 - S9 198年 1月 呂布討伐戦 15歳 一般 建業 孫策 120 - 1000 - - S10 203年 1月 袁家の戦い 20歳 一般 建業 孫権 120 建議校尉 6000 徐氏 - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 4歳 未登場 呉 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 8歳 未登場 呉 - - - 0 - - S14 251年1月 女の戦い 一般 建業 徐氏 100 奮威校尉 4000 徐氏 - 小覇王の弟君で、兄以上の脳筋武将。 武力と特技はそれなりに良好なので、統率面の補強をすれば実戦には耐えられるだろう。 知力面は、御夫人の徐氏に一任して問題ない。 -- (名無しさん) 2010-10-02 06 55 10 水将だけど水軍A止まりなんで、水上戦なら周瑜の副将にしてる クリティカルで確実に火がつき、火神で火の威力が2倍に 強敵なら周泰に任せるけど -- (名無しさん) 2013-03-02 12 33 25 最近、並み居る人気武将を差し置いて無双に出てしまったらしい脳筋息子。実はコーエーのお気に入りだったのか。 一見ありがちな低統率+高武力のかませ型脳筋で、しかもそのタイプとしても二流どまりという微妙に使えない武将にみえるだろうが、実は適正Aを3つも持っている。 特に騎兵Aは呉方面の武将では希少な性能なので、適正ブースター、あるいは武力ブースターとして地味に活躍できる。全性能において完全に劣化韓当なのはナイショだ。 不自然死とは言え寿命が短いし、呉では引く手あまたな+高を使ってまでの育成はやめておいたほうがよい。 -- (名無しさん) 2014-09-24 08 13 26 孫堅軍序盤の騎兵Aは貴重。 水将は機会を見て書き換えでも良い。 踏破や長駆が出たら付けてもいいが、不屈や金剛でも良い。 -- (名無しさん) 2016-09-30 10 35 07 名前 コメント すべてのコメントを見る
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孫範 ?-? 中唐の官人・藩鎮。孫公器の子、孫簡の弟。その世系は孫希荘→孫嘉之→孫逖→孫宿→孫公器→孫範となる。監察御史、淄青節度使となる。 表・列伝 『新唐書』巻七十三下 表第十三下 宰相世系三下 孫氏 『新唐書』巻二百二 列伝第一百二十七 文芸中 孫逖 簡
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孫堅(そんけん) 字は文台(ぶんだい) (156-192) 孫家は代々呉で役人をしており、正史では、「孫武(孫子の兵法で有名)の子孫だろう」と言われているが、定かではない。 男前で度量が広く決して他人には真似できない行動が目立ったという。 17歳の時、父親と一緒に船に乗って出かけたが、そこで海賊達が商人から奪った財宝を分配しているのに出くわした。 周りの旅人達は海賊を恐れて近づこうともしなかったが、孫堅は父親が止めるのも聞かず刀を手にして、彼らの前に進み出た。 そして手を振って周囲の者に合図をしたので、海賊達はその合図を官兵が自分達を捕らえに来たものと錯覚をし、財宝を置いたまま逃走。 孫堅はそれを追いかけ、海賊の首を一つ斬って戻ってきた。 この事件によって孫堅の名が広く世間に知られるようになり、役所は彼を召して仮の尉(県の軍事・警察を司る職)に任命した。 172年、会稽で自らを陽明皇帝と名乗り、数万の民を煽動した宗教的クーデターが発生。 孫堅は武芸に優れた勇敢な者を1000人ほど集め、官兵と共に攻撃し鎮圧した。 この功により県の次官となり、後に他2件で同職を歴任。 どの任地においても評判はよく、役人や民衆も親しみを持ち、彼の下には知り合いや大志を抱く若者達が集まり、その数は数百人にも及んだ。 孫堅は彼らを手厚く待遇し、自分の身内のように扱った。 184年、黄巾の乱が発生。朝廷に任命された大将の希望もあって孫堅は大将の配下となる。 彼らの向かうところ敵はなく、賊軍は徐々に追い詰められて城に篭った。 孫堅は自ら軍の先頭に立って城壁を乗り越え、味方の軍勢を城内に引き入れ賊軍は大敗した。 その後、長沙の地で1万余りの兵を率い勝手に将軍を名乗った者達を討伐する為、孫堅は長沙太守に任じられた。 すぐさま兵を率いて1ヶ月もしないうちに反乱軍を撃ち破る。 孫堅は赴任すると、有能な役人達を任命して以下のことを厳命した。 良民達を手厚く遇すること 公文書は正しい手続きによって処理すること 捕らえた盗賊などを勝手に処刑することを禁じ、太守の下に護送すること 反董卓連合に孫堅も挙兵。 まず、自分に対してひどく扱った荊州刺史を殺害。更に義勇軍に対して非協力的な南陽太守も殺害。その軍勢を吸収した。 袁術と会見をして協力することを約束し、袁術の口利きで将軍の位を手に入れた。 孫堅は出陣の酒宴を開いていたところへ董卓の急襲を受けたが、慌てることなく軍勢を纏めて悠々と入場をした。 董卓軍は孫堅軍に少しの乱れもないのを見ると、城に攻撃もせず引き返した。 董卓との戦いが激化すると、孫堅は董卓の大軍に囲まれ窮地に陥る。 孫堅は数十騎と共に囲みを破ったが、尚も敵が追ってくる。 側近の祖茂が赤い頭巾を被り敵の目を誤魔化している間、無事に逃げ延びることができた。 孫堅は再び軍勢を纏めると、今度は董卓軍を撃ち破り華雄を討ち取った。 この時、袁術に告げ口する者がおり、「孫堅が将来危険な存在になる」と聞いた袁術は信じ、孫堅に兵糧を送らなくなった。 孫堅はすぐ袁術の下に駆けつけ、「朝廷のため、またあなたのためにも私は命をかけて戦っているのに、何故あなたは讒言を信じて私を疑うのですか」と言うと、袁術は返す言葉もなく、すぐに兵糧を遅らせた。 董卓は孫堅が勇猛果敢であるので敵にしておくのはまずいと考え、孫堅の一族を高職に就けてやろうと持ちかけ、味方にしようとする。 しかし孫堅は、「董卓のような漢王室をないがしろにした男とその仲間を皆殺しにしなければ、私は死ぬに死ねないのだ」と言い、更に軍勢を進めた。 そして、董卓が洛陽の街を焼き、長安へ都を移すと、孫堅は洛陽に入って董卓が暴いた皇帝の陵墓などの修復を行った。 この時、古井戸から『伝国の玉璽』を手に入れ自国に持ち帰ったという話が注釈の『呉書』にあるが、注釈を入れた裴松之が、「孫堅のように王室に忠義な人物が玉璽を隠し持つ訳がなく、孫堅の名誉を傷つけるものだ」と批判している。 192年、孫堅は袁術の要請を受けて荊州の劉表を攻めたが、劉表も配下の黄祖を送って対抗しようとした。 孫堅は黄祖を破り、劉表が立て篭もる城を包囲したが、孫堅が単独で見周りをしていたところを、黄祖の兵が放った矢に射殺された。 また一説には、劉表配下の者が山陰づたいに孫堅に近づき、上から石を投げ落としたところ、孫堅の頭に当たって即死したとある。 『演義』では、孫堅の最期はこの後者になっている。 後に次男の孫権が皇帝に即位した時、『武烈皇帝』と諡された。 孫堅が死亡した時、孫策はまだ17・8歳。 このまま軍は瓦解してもおかしくはなかったが、孫策が後に挙兵すると孫堅時代からの武将もつき従っている。 確かに孫堅の死で孫軍という一勢力は消えたが、孫軍の火は息子である孫策・孫権、そして古参の武将達が絶やさず燃やし続けていたのだ。
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孫権 解説 字は仲達。呉の初代皇帝。孫堅の次男で孫策の弟。 孫策の急死により、後を継ぐ。孫策から自分が攻めに勝るのに対し守りに勝る、と評される。 赤壁の戦いでは、曹操との交戦を決断し、大軍を相手に勝利を果たした。 出現条件 最初から使用可能。 連携
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孫策(そんさく) 字は伯符(はくふ) (175-200) 孫堅の長男。 孫堅が各地の諸侯と連合して董卓討伐の兵を挙げた時、孫策は戦乱を逃れる為に母親ら家族を連れ、盧江郡舒県に移り住んだ。 ここで孫策は数多くの名士と交わりを結んだが、中でも後に孫策の義兄弟となる周瑜とは、この時交流を深めていた。 孫堅が戦死すると遺骸を曲阿の地に葬り、徐州近くに移り住んだ。しかし、徐州の陶謙が彼を嫌っていた為、孫策は危険を避けて親戚である丹陽太守の下に身を寄せた。 194年、孫策は袁術の配下となる。 袁術は親子二代にわたって自分の配下になったことに感心して、元孫堅部下だった1000人を孫策に返してやったという。 ただ、これには異説もある。 『江表伝』には、袁術は最初孫堅が残した部下を返すつもりはなく、丹陽太守の下で精鋭を集めるように言い、孫策は数百人を集めたが、反乱軍の襲撃に遭い、全滅に近い大打撃を受けた。 そして、袁術に面会すると、孫堅の部下1000人を孫策に返したとなっている。 孫策の評判はすこぶるよく、袁術も「もし私に孫策のような息子がいれば、思い残すことなく死ぬことが出来るのだが」と常々嘆息していたという。 その反面、袁術は孫策の器量を恐れもし、孫策を利用するだけ利用し、重要なポストには就かせなかった。 太守の地位を約束しておきながら、孫策が手柄を立てても約束を反故にし、自分の親類を太守に就かせた。 そんなこともあり、孫策は袁術に失望し、独立を考えるようになる。 揚州の劉繇が袁術に敗れて曲阿に逃れると、孫策の親類だった丹陽太守らは劉繇によって丹陽から追い出された。 そこで孫策はこれを機に袁術に「彼ら(追い出された太守ら)に加勢して、江東の地を平定したい」と申し出た。 袁術は将軍の称号を与え、救援に向かわせた。 この時与えられた兵数は1000人余りだったが、途中孫策出陣の報を受けた周瑜らも加わり軍勢は増して、向かうところ敵なし、という状態になった。 孫策は容姿が立派でよくジョークを飛ばし、性格も闊達で他人の意見を良く聞き入れ、適材適所に人を用いたので、兵士も民衆もみんな孫策の為に命をかけて働きたいと思ったという。 孫策は長江を渡ると、劉繇の食糧貯蔵庫を奪い、配下3人を立て続けに撃破。 窄融(さくゆう)を攻めた時、流れ矢が当たって足を負傷。輿に担がれて陣営に戻ったが、「孫策は死んだ」と偽の情報を流し、それに誘われて出てきた窄融を、伏せておいた兵と挟撃して敗走させた。 窄融は砦に戻って防御を固めたが、孫策は捨て置き、劉繇の別働隊を攻撃し、次々と勝利していった。 そして、ついに劉繇は軍勢を捨てて逃亡する。 呉の厳白虎も撃ち破ると、自ら会稽太守となり周辺の郡を一族に統治させて足場を固めた。 また、張昭・張紘などの参謀を招いて国政を取り仕切らせた。 この頃、袁術が勝手に皇帝を名乗ったので、孫策は手紙を送って非難。袁術との関係を完全に断ち切った。 そして、後漢王朝から正式に討逆将軍の位を受けた。 曹操は袁紹と争うにあたって、南方で着実に力を増していた孫策に背後を衝かれてはと考え、一族の曹仁の娘を孫策の末弟に嫁がせた。 200年5月、曹操が袁紹と対峙している時、孫策は許都を襲撃して帝の身柄を奪おうと考えた。 しかし、実行直前に以前殺害した呉郡太守の食客に襲われ、重傷を負った。 孫策は自分の命が少ないことを悟り、張昭達を呼び寄せて後事を託し、弟孫権の補佐を頼んだ。 そして、孫権には、「軍勢を動員し、天下の群雄達と雌雄を決するということでは、お前は私に及ばない。しかし、賢者の意見を聞き、才能をある者を用いて国を保っていくということでは、お前の方が私よりも優れている」と言って、印綬を渡した。 その夜のうちに亡くなった。26歳だった。 後に孫権が皇帝になると孫策は『長沙桓王』と諡された。 『演義』では、負け知らずの戦歴とその気性の激しさから「江東の小覇王」と呼ばれていた。 「覇王」というのは、漢の国を興した劉邦のライバルだった勇将項羽のこと。 太史慈と一騎打ちしたのは、『演義』にも『正史』にもある。 父孫堅が『呉国の祖』ならば、孫策は『呉国の基盤を築き上げた君主』だろう。 彼が築き上げたものは、この後の赤壁の戦いを経て確実なものになっていったからだ。 ただ、管理人側から不可解なことが一つ。 孫権が皇帝に即位した後、父に対して『武烈皇帝』と『皇帝』として諡しているが、兄孫策に対して『長沙桓王』と、『王』で諡している。 父に対しては尊敬の念があっただろう。しかし、兄に対しては何か含むことがあったとしか思えない。 もしくは、父をより敬っていることを示す為に、兄を『王』にしたのかもしれないが、それでも首を傾げたくなる。 ちなみに、彼には一人息子がいたが、後に後継者争いの巻き添えとなり殺害されている。
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登録日:2010/02/15 Mon 09 45 28 更新日:2024/02/05 Mon 01 36 05NEW! 所要時間:約 14 分で読めます ▽タグ一覧 GP01 かたいほうのそんけん この軍を率いている者は誰だ! ガンダムアストレイ 三国志 世界史 中国史 名将 君主 呉 堅パパ 天啓の幻 孫呉 孫堅 孫家 孫権 孫策 後漢末 武将 江東の虎 猛将 孫堅(そん けん)とは後漢末期の武将・君主である。 ▽目次 【概要】 【経歴】 【三国演義での活躍】 【人物・性格】 【各作品での孫堅】 【概要】 字は文台。 千の兵から立ち一気怒涛に江東を支配した孫策、後に呉の初代皇帝となる孫権、劉備の正室となる孫夫人の父。 春秋戦国時代を代表する兵法家、孫子(孫武)の子孫と称している……が、彼の時代から見ても700年も前の人物であり、信憑性は限りなく薄い。 父親は瓜を売って生計を立てていたともされる。 生年は156年で曹操より一つ年下。あと、配下である朱治は同い年。 【経歴】 若くして司馬となる。 許昌(*1)の反乱を始め黄巾賊、韓遂、区星(*2)など、後漢末期に起きた数々の反乱の鎮圧に参加し、そのことごとくで勝利に貢献してきた。 こうして実戦経験を積む一方、程普、韓当、黄蓋、朱治などの孫呉三代に渡り貢献する優秀な人物を配下に加えてゆく。 そうするうちに孫堅の勢力は日増しに増え、他の諸侯と同じように軍閥化の兆しを見せた。 というより、孫堅は群雄の中では極めて初期からのし上がっていったほうである。 その頃、洛陽では何進や丁原の勢力を吸収し、皇帝のすげ替えまでやってのけた董卓が実権を握っていた。 その董卓だが、かつて韓遂が反乱を起こしたとき、孫堅は司空(*3)・張温のもとで共に討伐軍に参加していた。 その時、孫堅は董卓の軍規違反に腹を立て、張温に董卓を殺すよう弾劾していた過去があり、董卓から恨まれていた。 しかも、董卓は政権を握った後、理不尽な理由で張温を殺害しており、孫堅は次に狙われるのは自分だと覚悟していた。 そして190年、袁紹が反董卓連合を結成すると、さっそく参加を表明。 北上するのだが、その途上でかねてから不仲であった荊州刺史王叡をドサクサ紛れに殺害。 この時殺した王叡の後任が、ご存知劉表である。 さらに、進撃の過程で反董卓連合に協力しない群雄を次々と攻撃し(*4)、その軍勢を吸収しつつ北上。 袁術に謁見し、太守を殺していた南陽郡を袁術に献上した。 袁術は南陽郡にほど近い汝南の大豪族の棟梁であり、その彼と同盟を結ぶことで袁術勢力の支援を受けたのである。 こうして、まずは足場を固めた孫堅は、やる気の無い諸侯を尻目に快進撃。 同じく孤軍奮闘していた曹操軍を撃破した董卓軍の名将・徐栄には大苦戦し、 一度など追い詰められたあげく自らの赤い頭巾を祖茂に被せて囮に使うというほどに敗れたが、 袁術軍の支援があったことで素早い再編成に成功し、今度は華雄を討ち取ることに成功する。 その勢いを恐れた董卓は孫堅との和睦を図るが、董卓が嫌いな孫堅は呑む筈が無く、 董卓は洛陽を引き払って長安への遷都を強行。住民を強制移動させると、董卓の指示か或いは部下の独断かは断定しかねるが洛陽の都は焼き払われ、焦土と化してしまう。 洛陽の都に乗り込んだ孫堅はその変わり果てた洛陽の姿に愕然とし、董卓によって暴かれていた陵墓などを修復し、仕方が無いため袁術のもとに帰還する。 なお、演義ではこのとき玉爾を発見したことになっている。 これはまんざら演義の創作ではなく、西晋時代の300年頃に作られた『江表伝』という資料に記載されており、そうした意味では『史実』である。 『事実』だったかというと否定的な意見が多いが、少なくとも三国時代直後にはそうした見方があったようだ。 やがて天下が袁紹対袁術の二大派閥の争いを見るようになると、そのまま袁術に味方し、王叡の後継として荊州刺史となった劉表討伐に向かう。 孫堅軍はやはり強く、劉表配下の黄祖を打ち破り襄陽を包囲した。 ……が、調子に乗って最前線で黄祖を狩っていたところ、反撃した黄祖の矢をまともに浴びて戦死してしまう。 これにより孫堅軍は崩壊。残兵はほとんど袁術に吸収されることとなる。 再び孫の旗が戦場にはためくことは孫策の雄飛までなかった。 【三国演義での活躍】 ほぼ史実の通り。 「江東の虎」というすさまじい二つ名を引っ提げている。 三国演義は劉備と曹操を物語の軸として描いている都合上、孫呉勢力は活躍を減らされたり、小物くさくアレンジされていたりするが、 孫堅の場合はほとんど変わっておらず、ほとんどの場所で名将として描かれており、黄巾の乱でも劉備や曹操の前にさっそうと現れ、許昌、韓遂、区星らを討伐したことも(あっさりとだが)触れられているなど優遇気味。 反董卓連合では胡軫を討ち取るも、袁術に糧道を絶たれて華雄に敗れるという結果になるが、これも「袁術のせい」という演出で、孫堅には問題はなかった、という風にフォローされている。 カットされたエピソードといえば「絶対悪役・董卓の同僚だった」「進出途上で難癖付けながら群雄を攻め滅ぼしていった」などの後味の悪い場所ばかりで、それらがカットされただけ、爽快さが増している。 一方、伝国の玉璽を私蔵しようとして袁紹や劉表に責められ、あげく中途半端な宣誓をしたことが災いになるという一幕も。 【人物・性格】 勇猛で剛毅かつ、忠義の士であったがどこか思慮に欠ける所があったとされる。 恐らくはこの性格は孫家代々の遺伝子であるものである。 苛烈が過ぎて刺客に殺されたり、自重しなかったが為に張遼にフルボッコにされたり、思慮に欠けたが為に部下に殺された各三人の息子や、 酒席でブチ切れて甘寧と喧嘩した甥を見ればそれは明らかであり、孫瑜はただの突然変異である。 ともかく彼の義は確かなものがあり、賞賛を得ている。 ただ、反董卓連合に参加する途中に盗賊のように襲い掛かって勢力を拡張していったあたり、やはりある程度「王業」を目論んでいたところはあったであろう。 【各作品での孫堅】 基本的に息子たちがメインとなるので、二次創作での扱いは微妙な所。 大体の作品で曹操より年下である事は無視され、めっちゃオッサンくさく描かれることが多い。 ●横山三国志 特筆するような点は無かった気が。 ●蒼天航路 「おお、快なり!」 どう考えても漢民族の面構えじゃない、息子の髪型も漢民族のものじゃない。 曹操との出会いは黄巾討伐で、互いに認め合っている。 その後反董卓連合でも活躍し、劉表討伐に向かった所上記のセリフを残し死亡。 三国志大戦のLE(天啓)が出た、孫権をハブって。 ●三国志大戦 武力+10の号令で効果終了後に全員死ぬ集団自爆テロこと『天啓の幻』 同じく武力+10の号令を自らが撤退することにより実現する『我が屍を越えよ』 星一徹かつ勝手にそこらを動き回る『そも』を召還して自分は逃げる『赤い頭巾の囮兵』 さらに美味しんぼとのコラボで雄山パパも参戦。計略も『至高の大号令』(武力+8と特技に応じて様々な効果付与、そして例によって集団自爆)とSSQ全開。 漢軍には国力が上がると突撃ダメージの上がる『決起の神速行』 以上の5枚。 たった5枚だとっ!?ふざけるなあっ!! 新版でも一徹と雄山以外の3枚はそのまま続投し、なんと最初期にはスターターデッキにまで抜擢されいきなり『天啓の幻』が使えた。 しかし「初心者にいきなり集団自爆使わせるのはどうなんだ」と言う事でいつの間にか息子に変わった。 『天啓の幻』は度重なる強化で武力+12にまで性能が上がり、『我が屍を越えよ』は自らが撤退する前に武力+10されて暴れ回る効果がついた。 武力の上がった自分を敵城に向かって発進させゴールさせるとダメージを与えられる日向小次郎の強引なドリブル『猛虎蹴撃(タイガーショット)』でSSQも忘れていない。 SSQでない新規としては相手を撤退させるたびに全員の武力が上がる『虎王の雄姿』が登場している。 漢軍は国力が漢鳴に置き換わった『漢鳴の神速行』の他 更に敵の武力を下げる効果までついた『海賊流威嚇術』 戦場の味方の漢鳴に依存したどう考えてもクソ使いにくい神速超絶『白虎の咆哮』 中国四千年の歴史で最高峰の武術家が放つ敵を吹き飛ばすワンインチパンチ『寸勁』 とやはり多数が出ている。わたしは一向にかまわんッッッ ●無双シリーズ シリーズを通して扱いやすいが他のニ傑より攻撃範囲が狭い&早く死ぬため影が薄い。 OROCHIでは彼の生き様からかアーツ2が【体力を削って無双を一定時間MAX】にするとんでもないものにされてEXが高速化の猿と組まされる。 ●恋姫†無双 物語開始時点で既に亡き人、名前だけの登場。 ●一騎当千 勿論故人。 ●白井式三国志 やっぱり故人。孔明曰く「(孫権より)偉大なオヤジ」だったらしいので、まあ名君ではあったのだろう。 ●BB戦士三国伝 CV 長嶝高士 『江東の虎』孫堅ゼフィランサス。演者は『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』のガンダム試作1号機ゼフィランサス。 子女や弟子の周瑜を連れて悪逆非道の董卓ザク征伐に赴き、華雄ザンネックを討ち取る。 しかし呂布トールギスの攻撃から愛する子供たちを守り、壮絶な戦死を遂げた。 その後、使用していた「白虎の鎧」や剣などの装備は息子である孫権ガンダムが継承している。 単独キットは発売されておらず、上記のように装備を継承した息子「轟大帝 孫権ガンダム」のキットに差し替え用のマスクパーツが付属する形で再現されている。 そのせいでアニメ版キットが発売されない憂き目に合ったのはご愛嬌 ●SDガンダムワールド 三国創傑伝 CV 山口太郎 本名は孫堅ガンダムアストレイ。 演者は『機動戦士ガンダムSEED ASTRAY』のガンダムアストレイ ゴールドフレーム天ミナ。 息子たちは孫策がブルーフレーム、孫権がレッドフレーム、孫尚香はストライクルージュがモデル。 ゴ・エリアを支配する大企業レッドタイガーの総元締めであるが、社長というかまるで海賊のボスのような豪快な親分肌。 実際、若い頃はパイレーツワールドで修行しており、今もパイレーツワールドの海賊たちとは堅い友情で結ばれている。 劉備ユニコーンガンダムはかつて孫堅に師事しており、今でも父親のように慕っている。 強さも半端ではなく、なんと関羽νガンダムと張飛ゴッドガンダムの二人がかりでも敵わなかった董卓プロヴィデンスガンダムを1人で撃破している。 おまけに一向に死ぬ気配が無いので息子たちを差し置いて完全にゴ・サイドの主役となっている。 ここまで優遇された孫堅は本作以外にはそうそう見当たるまい。 ●ブレイド三国志 主人公の父親として登場(と言っても生まれ変わりだが) 巍の精鋭将軍を相手に、たった一人で奮闘するも、自ら谷底に落ち絶命 彼の人生は囮として幕を閉じた… 追記修正宜しくお願いします △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 長生きしてたらもう少し早く三国時代になってたか魏と呉で南北朝時代になっていたのかな? -- 名無しさん (2019-07-03 01 17 55) 魏と呉ではなく袁紹と袁術の南北朝になってた可能性が -- 名無しさん (2021-01-16 01 27 12) 名前がすごく紛らわしい人、口頭だと父なのか息子なのかわからない -- 名無しさん (2021-09-26 00 00 23) 息子達が孫家を再興できなかったら孫堅の評価って袁術配下の武将その一で終わっていたのかな -- 名無しさん (2023-06-04 00 41 36) 名前 コメント
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孫宿 ?-? 中唐の官人。孫逖の子。孫成の兄。代宗の時代に知制誥となる。華州刺史となるが、卒中により失語症となった。『新唐書』宰相世系表では孫公器の父とする。 列伝 『新唐書』巻七十三下 表第十三下 宰相世系三下 孫氏 『新唐書』巻二百二 列伝第一百二十七 文芸中 孫逖 簡
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孫儲 ?-? 晩唐の官人。字は文府。孫景商の子。宰相孫偓の兄。天雄節度使を経て、金紫光禄大夫、守兵部尚書、上柱国、楽安郡開国公、食邑一千五百戸となる。光化三年(900)七月、京兆尹を兼任した。 表・列伝 『新唐書』巻七十三下 表第十三下 宰相世系三下 孫氏 『新唐書』巻一百八十三 列伝第一百八 孫偓 『旧唐書』巻二十上 本紀第二十上 昭宗上 光化三年七月戊申条 外部リンク 維基百科,自由的百科全書 孫儲(中文) https //zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%AD%99%E5%82%A8
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孫 文 初代中華民国臨時大総統 プロフィール 出生 1866年11月12日Template QIN1890?広東省 死去 1925年3月12日Template Flagicon?北京 出身地 清国広東省中山市(香山県) 職業 政治家、革命家、中華民国臨時大総統 政党 同盟会、 中国国民党 各種名称 譜名 德明 幼名 帝象 字名 載之 号・教名(受洗名) 日新、逸仙 日本名 中山樵(なかやましょう)、高野長雄(たかのながお) 慣称 孫中山 各種表記 簡体字 孙中山 繁体字 孫中山 ピン音 Sūn Zhōngshān 和名読名 そん ちゅうざん 発音転記 スン ヂョンシャン ラテン字 Sun Chung-shan 英語名 Sun Yat-sen ■ ポータル ■テンプレート ■ノート 孫 文(そん ぶん、ソン ウェン、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、Template ピン音?、1866年11月12日 - 1925年3月12日)は、中国の政治家、革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。 号は中山 (Zhōngshān)、字は載之。中国では前者で、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senで知られる。 中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。海峡両岸の両国で尊敬される数少ない人物である。 中国では孫文よりも孫中山(スン・ヂョンシャン)の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼ばれている。中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学は孫中山からの命名である。クリスチャンであった。 生涯 生い立ち 清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の客家の農家に生まれる幼年聽太平天国老兵頼漢英說故事。 アメリカ新領のハワイにいた兄の孫眉を頼り、ハワイのキリスト教系学校に学び西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配し、中国に戻された。 帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業した。 革命家へ 清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年、ハワイで興中会を組織した。 翌年、広州蜂起に失敗して日本とアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になる。 以後、革命資金を集める為、世界中を巡った。 1905年に興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成する。 中華民国建国 1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。しかし、孫文は革命政府を維持するため、宣統帝の退位と引き換えに清朝の実力者・袁世凱に総統の座を譲る。袁世凱による独裁が始まると、反袁を唱えて活動するが、袁の軍事力の前に敗れて日本へ亡命した。日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を犬養毅へ送っている『孫文選集(第三巻)』社会思想社、1989、 ISBN 4390602802 。 この頃に同じ客家でもある宋嘉樹の次女の宋慶齢と結婚。結婚年については諸説あるが、孫文が日本亡命中の1913年~1916年とされ、この結婚を整えたのは資金面で支援をしていた日本人、梅屋庄吉であった2007年2月25日NHK BS1 『世界から見たニッポン~大正編』。 「革命未だならず」 Template main? 袁の死後は、西南の軍閥の力を利用し、広州で政権を樹立して軍閥が割拠する中国の統一を図った。しかし、軍政府における権力掌握の為に、広西派の陸栄廷を攻撃したことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わり、また、第二次護法運動は陳炯明との路線対立により、広州を逐われた。その後、軍閥に依拠せず、自力で軍隊を構築し、統一政権を樹立するために、ソ連の支援を仰いだ。さらに中国共産党とも協力関係を結び(第一次国共合作)、さらに「聯蘇容共」を自ら唱えた。これは孫文自身が左派であることを示し、反共的な蒋介石らや財閥との結びつきの強い人物からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。孫文の妻でその遺志を継いだ宋慶齢は大陸に止まり、蒋介石を裏切り者と攻撃した。 1925年、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命未だならず)」との一節を遺言に記して(実際には汪兆銘が起草したもの)北京に客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。また、死の前年の神戸での「大アジア主義講演」は、欧米の侵略主義にたいし東洋の王道平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。 革命政治家として 孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えていた。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、宋教仁らの唱える長江流域革命論と対立した。また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。 連ソ容共政策 孫文は自らの軍事力確保を目指し、このためソビエト連邦からの支援を求めて連ソ容共政策が開始された。1923年1月26日、上海における孫文とソビエト連邦代表アドリフ・ヨッフェの共同声明は中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約した。孫文・ヨッフェ宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年中国に入り、孫文の主要な顧問となった。ボロディンの進言により1924年、中国共産党とも協力関係を結び(第一次国共合作)、黄埔軍官学校も設立された。1925年にはソビエト連邦と中国共産党により中国人革命家を育成する機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。 孫文の遺言のひとつ(要約) 「余の力を中国革命に費やすこと四十年余、その目的は大アジア主義に基づく中国の自由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったことは、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということである。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてような功利主義的国内革命ではなく、これまでの支那史観、西洋史観、東洋史観、文明比較論などをもう一度見つめ直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の覇道にたいするアジアの王道の優越性を強く唱え続けることが肝要である。 しかしながらなお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。」 中山という字の由来 孫文が日本亡命時代に住んでいた近くに、「中山」という邸宅があり、その字を気に入り、孫中山と号すようになった。「中山家」は由緒ある公家(華族)の家柄であり、明治天皇の母の生家にあたる。 現在中国大陸や台湾島にある「中山大学」、「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の字に由来している。 日本における評価 Template 独自研究? 孫文の評価は一見わかりやすいようでいて、実のところほとんど一定していないのが実情である。1970年代以前は被抑圧民族の立場から帝国主義に抵抗した中国革命のシンボルとして高く評価され、特に1924年の「大アジア主義講演」が日本の対アジア政策に警鐘を鳴らすものとして絶賛的に扱われていた。しかし、革命への熱気が冷めた1980年代以降は、孫文の独裁主義的な志向性、人民の政治能力を劣等視するような愚民観、漢族中心的な民族主義といった点が問題視されるようになり、現在の権威主義的・非民主的な体制の起源として批判的に言及されることも多くなった。 とりわけ孫文の評価を難しくしているのは、民族主義者でありながらまだ所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの借款に頼ろうとしたり、革命家でありながらしばしば軍閥政治家と手を結んだり、最後にはソ連のコミンテルンの支援を得るなど、目標のためには手段を選ばない運動のスタイルである。彼の思想である「三民主義」も、マルクス・レーニン主義、リベラル・デモクラシー、儒教に由来する多様な理念が同時に動員されており、思想と言えるような体系性や一貫性をもつものとは見なしづらい。もっとも、こうした場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる政治活動家であったという理由によって肯定的に評価されてもきた。 孫文には中国の革命運動における具体的な実績はそれほどなく、中国国内よりも外国での活動のほうが長い。彼の名声は何らかの具体的な成果によるものと言うより、中国革命のシンボルとしての要素によるものであると言える。孫文の活動した時代を扱った中国史の研究書の中でも、ほとんど言及がないものも少なくないが、これは史料の中に孫文の名前がそれほど登場しないというごく単純な理由にある。実証的な研究の進展に伴い、孫文の研究は中国近代史全体を理解するためのものというよりも、「孫文研究」という一つの専門領域となっている傾向があると言えるだろう。 人柄 生前は、その主張を単なる冗談・大言壮語ととらえ、孫大砲(大砲とはほら吹きに対する揶揄的な表現)と呼ぶ者もいた。また非常に短気で激昂しやすい性格であったといわれる。 脚注 関連文献 藤村久雄『革命家 孫文―革命いまだ成らず』中公新書、1994、ISBN 4121011848 陳徳仁・安井三吉『孫文と神戸』神戸新聞出版センター、1985、ISBN 4875210523 島田虔次・近藤秀樹『三十三年の夢』岩波文庫、1993、ISBN 400331221X 小説:陳舜臣『青山一髪』(上下巻)中央公論新社、2003(文庫版は改題『孫文』(上下巻)中公文庫、2006) 「孫文の人物像と日本人ネットワークの検討」福田惠子[1]国際開発学研究(拓殖大学) 「孫文革命の展開と何香凝」竹之内安巳[2][3][4]鹿児島経大論集(鹿児島大学)...孫文の盟友廖仲愷の妻であり革命運動を支えた何香凝による「我的回憶」の要約 孫文が登場する作品 映画 孫文(1986年、中華人民共和国、監督:丁蔭楠、孫文役:劉文治) 孫文(1986年、香港、監督:丁善璽、孫文役:リュー・チャーフィ) ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地大乱(1993年、香港、監督:ツイ・ハーク、孫文役:ジャン・ティエリン) 宋家の三姉妹(1997年、香港、監督:メイベル・チャン、孫文役:ウィンストン・チャオ) 関連項目 三民主義 蒋介石 中華民国の歴史 中華民国の政治 中華民国憲法 中国国民党 中国共産党 中華人民共和国 黄興 章炳麟 宋慶齢 毛沢東 犬養毅 宮崎滔天 鈴木久五郎 梅屋庄吉 佐々木到一 頭山満 ジェームス・カントリー - 孫文の恩師の医学博士 移情閣 - 神戸市垂水区にある孫文ゆかりの建物 中山陵 - 孫文の陵墓 孫中山紀念館 国父記念館 - 中華民国台北市にある孫文の記念館 辛亥革命 孫科 - 字は哲生、孫文の先妻の息子 孫治平・孫治強 - 孫文の孫、孫科の長男と次男 孫国雄・孫偉仁 - 孫文の曾孫と玄孫 外部リンク Template Commons? 孫文記念館(日本) 国立国父紀念館(中華民国台湾台北市) 孫中山故居記念館(広東省) 請孫文再来(日本)論文 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月19日 (日) 10 20。
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ソンシュウ 列伝 呉の武将。孫権の弟・孫匡の孫。孫泰の子。 【演義】 晋の驃騎将軍として登場。孫皓が晋に降伏した時、「孫策が礎を築いた呉の国を、今、孫皓が捨て去ってしまった。天よ、これは誰の罪か」と嘆いた。 【正史】 孫皓の代に、前将軍、夏口の督となる。呉の皇族の中でも特に帝位に近く、大きな兵権を握っていたため、孫皓から警戒された。270年、身の危険を感じ、妻や子飼いの兵士を連れて晋に亡命、驃騎将軍となる。この厚遇ぶりから、以後、呉将の晋への亡命が相次いだ。呉の滅亡後、伏波将軍に降格するが、以後も重んじられた。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 55 51 53 57 68 284 106 159 順位 428 428 428 366 245 368 444 449 偏差値 48.9 48.3 47.2 50.2 54.5 49.5 48.5 47.4 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 B C A C C A 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 43 46 36 44 44 50 41 39 36 33 46 47 順位 402 381 434 460 374 272 434 442 442 439 328 252 偏差値 48.7 49.1 46.4 46.4 51.5 52.2 46.4 46.8 46.8 47.0 52.2 53.2 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技なし マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 130 揚州 任意 中華統一 無頓着 2/5 3/5 2/3 235 249 299(65歳) 自然死 小心 小心 普通 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 故事 ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 孫秀 親愛 なし なし 嫌悪 孫皓 なし 血縁 世代 ● ● 1 孫堅 孫静 孫羌 2 孫策 ①孫権 孫翊 孫匡 孫朗 孫尚香 孫暠 孫瑜 孫皎 孫賁 3 孫氏 孫魯班 孫登 孫和 ③孫休 ②孫亮 孫泰 孫綽 孫恭 孫鄰 4 ④孫皓 孫秀 孫綝 孫峻 孫震 孫歆 シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 - 未登場 呉 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 - 未登場 呉 - - - 0 - - S3 194年 6月 群雄割拠 - 未登場 呉 - - - 0 - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 未登場 呉 - - - 0 - - S5 207年 9月 三顧の礼 - 未登場 呉 - - - 0 - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 未登場 建業 - - - 0 - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 未登場 建業 - - - 0 - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 柴桑 孫堅 120 - 0 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 - 未登場 呉 - - - 0 - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 未登場 呉 - - - 0 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 未登場 建業 - - - 0 - - S12 187年 4月 何進包囲網 - 未登場 呉 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 - 未登場 呉 - - - 0 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 汝南 - - - 0 - - 能力・性格ともに微妙だが適正はこの能力で弩A水軍Aという強さで、しかも中々のイケメン。適正をいかして副将にもってこいの武将。特技などをつける場合は能力に依存しない特技をつけたい。 -- (名無しさん) 2010-07-20 21 29 10 顔グラ詐欺にも程がある孫家の末端。孫策系のイケメンなのに能力は満遍なくハンパで使い道がない。 せいぜい輸送係だなと思いきや、顔に似合わず義理が低いので無理。主将は勿論ダメだし、知力が低いので副将もイマイチなのだが、唯一弩Aだけが光る。 特に秀でた使い道があるわけではないので、適当な武官の副将にして第二線を張るぐらいがせいぜいか。低義理が気になるのなら、内政の数あわせに使いっぱなしでも構わないだろう。 -- (名無しさん) 2015-01-24 13 34 44 義理が低いけど、粛清恐れて逃げたんだから張郃らと変わらないと思うが。義理は3あってもいいと思う。 -- (名無しさん) 2016-04-03 12 18 53 299年が没年になっているが、『晋諸公賛』には永寧(301-302年)中に亡くなったとある。 299年には、氐の斉万年討伐に従軍する事になった周処(周魴の子)を制止している。西晋では呉の遺臣の顔役になっていたようなので、もう少し政治は欲しいところ。 -- (名無しさん) 2016-10-02 14 56 46 寿命が長いので、孫権の後継者にしてもよいかも・・・問題はそこまでプレイしていることがまずないという事だが。 -- (名無しさん) 2019-07-12 23 31 07 史実だと結構有能な人っぽいんだけどね。だからこそ警戒されて亡命の憂き目にあったわけだけども。 適性がしっかりしているので、英雄集結においても副将として運営できる。顔が好みの方は育ててみてもいいかも。 -- (名無しさん) 2019-07-29 12 27 02 名前 コメント すべてのコメントを見る